山下良道法話:「最後の希望 エゴの虚構を超えて」(3 of 3)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※日時・場所:2008年6月15日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=423
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

2 of 3からの続き)

 今日の法話で今まで話してきたことは、先週までにもさんざん話してきたことですけども、今からお話しすることが、「普通、エゴがどういうふうにはたらくか」の、エックハルト・トールさんによる完全な分析です。

(中略)

 今日はそれの全部の説明はできないと思うけども。エックハルト・トールさんの“Stillenss Speakes*1によると、エゴの、非常に大きな特徴の1つは、英語だと“victim identity”というんですよ。“victim”というのは「犠牲者」ですね。「自分は何かの“victim”だ」、「自分は何かの犠牲になった」ということを「自分だ」としてしまう。その「何か」というのは何だってよいわけですよ。それが政治的なものであったり、あるいは家族的なものであったり、あるいは何か人間関係であったり。
 それで、「[自分は]犠牲者だ」と思った場合にどういう感情がありますか? 当然、恨みですね。だから、「自分は何かの犠牲になった」と思うと、その人の核心部分を占めるのはもちろん恨みですよ。恨みつらみですね。
 そんなことを言うと、世の中には当然いろんなことがあるわけだし……戦争が起こって・テロが起こって、こっちには何の罪もないのに酷い目に遭うことが当然あるわけじゃないですか。(中略)だから当然、我々が「犠牲になった」といってもね、それ[=犠牲になったという解釈]を正当化できる場合も当然あるわけですよ。だから、「犠牲者だ」というのが全て個人的な思いだということを言っているわけじゃないですよ。当然、正当な理由があって「犠牲者」と呼んでいい場合ももちろんあるわけですよ。

 そうなんだけれども、「自分は犠牲者だ」という思いがいつの間にか「牢獄」を作ってしまうということなんですよ。そうなるとどうなるかというと、それがもう、その人のアイデンティティになるわけね。(中略)それが自分のアイデンティティになっていないかどうかということを……。[それがアイデンティティになっているならば、]そこには必ず、「自分は犠牲者だ」ということに対する非常に不思議な執着も当然あるんですよ。そこをまず観てください。これは他人に言うことではなくてね、自分たちが自分で観ることですから。

 それで、[エゴの、非常に大きな特徴の]2つめは、英語だと“complaining and reactivity”です。“complain”は「不平を言う」。そして“reactivity”というのは“reaction”ということですね。これは「反応する」というか「瞬間的に反応する」ということですね。つまり「過剰反応」といってもいいと思うんですけども。そういうことによって我々はエゴを大きくしている。つまり、何か人生で出会う1つ1つのものに対して「不平不満を言う/過剰反応をする」ことによって[エゴを大きくしている]。
 そして、「状況を『悪い』とすることによって、自分を『良い』とする」。つまり、人は何かを批判するでしょう? なぜ批判するかといえば、「それが間違っているから批判する」わけでしょう? その何かを「間違っている」と批判することによって、「[批判対象は]間違っている。自分は正しい」となって、そうすると「正しい自分は、間違っている何かに対して“superior”(優れたもの)になる」わけじゃないですか。それだからこそ、「そういうこと[=批判など]をしなきゃいけない」わけですよ。

 だから、これももう身も蓋もない分析を今、エックハルト・トールさんがしちゃっているんですけどもね……。つまり、何というかな、エックハルト・トールさんの分析がちょっと身も蓋もないのは……彼がエゴというのをどういうふうに観ているかというと、それはもちろんね、エックハルト・トールさんはまず自分のエゴを観たわけですよ、徹底的に。自分のエゴがどういうふうに反応するかを観た場合に、それとまったく同じものを他人のなかに観ている。だからそれは、他人のエゴを批判しているんじゃないんですよ。「エゴというのは私のなかにもあって、Aさんのなかにもあって、Bさんのなかにもある。だけども皆、結局同じだ」というね。エゴというのは、驚くほど同じような生き方をしてしまう。だから、私が私のなかのエゴを徹底的に観ることによって、Aさんのなかでのエゴがどうはたらくかが観えてしまう。だけどそれはAさんを批判していることでは絶対になくてね、エゴという、何かもっと普遍的なものの正体が観えてしまう。だからドキッとするわけですよ。なぜかというと、ちょうど自分を見透かされたような[感じがするから]。

 これは、「[外見は]皆それぞれ一人一人違っている……顔も違うし体の格好も違うし。だけど解剖してしまえばまあ同じように心臓があって胃があって大腸があって、結局みんな同じ」というようなもので、大の大人は皆それぞれ何か立派そうな振りをしていますけどね、でも結局、その一人一人のなかにエゴがあって、エゴというのはもう驚くほど、笑っちゃうほど同じようなはたらき方しかしないというふうに、自分のエゴのはたらきを徹底的に観ることで、エゴという普遍的なもの――普遍的なあり方――が観えてきちゃって。だからその普遍的なエゴが一人一人――Aさん、Bさん――のなかではたらいているのが観えてしまうということなんですよ。
 だから、エゴというのは――さっきも言ったけども――弱いでしょう? 弱いから常に、おびやかされているわけね。おびやかされているからこそ、どうしなきゃいけないですか? 「相手以上にならなきゃいけない」じゃないですか。つまり、「私はAさん以上の立場に立たなきゃいけない」わけですよ。そのためにはどうしたらいいかというと、[相手である]Aさんを批判するしかない。「おまえは間違っている。ということは俺は正しい」じゃないですか。だから、「間違っている」と「正しい」だったら「『正しい』のほうが上」なわけですよ。だから、世の中のほとんどの批判とかいうものは、ほとんどこの動機によってなされている。だから、Aさんという人が正しいか間違っているかなんて本当はどうでもいいんですよ。「自分はAさんという他人よりも上に立ちたい」から、上に立ちたいというだけの理由で「Aさんは間違っている」というふうに批判して、「だから俺は正しい」[と主張する]。(中略)結局、それが動機づけだということね。だから、世の中でのほとんどの批判というのは、それが動機づけじゃないのかということを観れば、非常に[クリアに]観えてくるはずです。まあ、これもちょっと詳しく[考察]しなきゃいけないけどね、今日はまあエゴのだいたいのパターンをいま[考察]してますけども。
 それで、エゴが大好きなもう1つのものは“conflict”なんですよ。「ぶつかり合い」ですね。エゴは大好きなんですよこれが。ぶつかり合いが[エゴにとって]なぜ大事か分かります? エゴというのはね、――非常に不思議なことに――「分かれてなきゃいけない」んですよ。“Stillenss Speakes”では彼は“separate identity”と言っているけどね。
 つまり、ぶつかるということは要するに、相手と同一化しない――相手と妥協したりしない――わけで、ぶつかることによって相手と分かれるわけじゃないですか。そうすることによって、「これが私であり、相手は私ではない」……〈私〉と〈私ではないもの〉[という分離がはっきりする]。そういうものをはっきりさせるために、ぶつかる。
 やたらに闘いが好きな人って居ますけども、なぜそうなのかというと、闘うことによって、相手と自分が違う[ということがはっきりするから]。闘うということはどういうことかというと、「相手と自分は違う」ということでしょう? そうすることによって自分のアイデンティティを確保するわけですよ。
 それが、人類の歴史においては民族やあるいは種族とか国家とか[のぶつかり合いとして現れてきた]。あるいは、残念ながら宗教でもセクトというのはまさにそうであって、宗教のセクトもそういう、自分たちのそのアイデンティティ――それは“collective identity”といって、一人の(中略)アイデンティティではなくて、もっと[多人数の集団の]全体としてのアイデンティティ――を確保するため[にぶつかり合ってきた]。それを確保するために何が必要かといえば、敵が必要なんですよ……敵と“conflict”を起こす。
 だからそれが、宗教って……「普遍的な愛」とか「慈悲」とか「すべてのものは繋がり合っている」なんていうことを言っている宗教なんだけども、なぜセクトがあれだけぶつかっちゃうんですか。だから、ほとんどの宗教のセクトというのは自分たちが言っている教義とまったく違う結果になってしまうのはなぜかというと、どうしてもそこで自分たちとは違う何かが必要になってきて、自分たちとは違う何かがあるからこそ「自分たちはそれとは違っている」ということで1つのアイデンティティができるということになっているわけですよ。だから、エゴというのは必ず、相手とのぶつかり合い(conflict)が好きだということですね。
 だから、今まで[エゴの大きな特徴として挙げてきたこと]は“victim identity”――「犠牲者である」ということ――と、不平不満を言うことと、相手とぶつかること。その3つが、エゴが好きなこと、エゴがやっていることですね。そして、エゴが大好きなもう1つのことは「比較」なんですよ。
 「比較」が……現代の日本の、もう一番の問題がここにあると私は思うんですよね。「比較」とは何ですか? 格付けじゃないですか。格差じゃないですか。だからその場合ね、「格差社会」の問題は……例えば収入というものがあって、月収が幾らであるかには差があるに決まっているじゃないですか。あるいは色んな能力に差があるのは当たり前で。差がまったく無い社会なんてあり得なかったわけですよ。それで、実際にまあ日本というこの国は非常に世界的にも特殊で、――これはもう誰もが言うことだけども――日本はやっぱり格差が一番無かった社会なんですよ。これはサラリーマンの人の給料をみても……アメリカの大きな企業のトップの人はとんでもない額の給料を貰っているということを皆さん知っていて、普通に工場で働いているブルーカラーの人とは比較にならないくらいの給料を貰っているわけですよ。もちろん日本でも社長さんたちはすごい給料を貰っているかもしれないけども、アメリカと比べたら、そう大したことはないですよ。それは日本社会が文化として、そこに大きな格差を認めるのを嫌ってきたというのがやっぱり伝統としてあったからだと思うんですけども。
 だけども今なぜ「格差社会」とか「格付け」とか言われて、それがこれだけ皆を苦しみに追いやっているかというと……(中略)確かに今、年収が200万円以下の人がすごい数で居るということが大問題だとニュースになっていますけど、それはもうその通りでしょう。だけどもそれ以上に、今の「格差」ということがとてつもない苦しみを生んでいるということの一番の状況[=背景]は、私が今から言うことだと思うんですよ。それはつまり、エゴというのは必ず、比較するということを好むんですよ。我々のエゴが他人というものに出会ったときにどうするかというと、必ず比較するわけ。それで「相手が自分より下」だったらもちろん“superiority”(優越)を感じるわけだし、「相手が自分より上」だったら“inferiority”(劣っていること、劣等感)を感じるということで。
 常に常に我々は「比較、比較、比較」をしていて、そして「相手が自分より上」だったら、“envy”(羨ましがる)ということになるし、「相手が自分より下」だったら優越感を感じるとか、あるいは場合によれば軽蔑するとか色んなのがあるの思いますけども。エゴというのは必ず比較する。それが「上の相手」だろうか「下の相手」だろうがね。そして当然、相手が上か下かによって反応が違ってきて。だけども、「比較するということがエゴのはたらきなんだ」ということは徹底的に押さえてほしい[=理解してほしい]し、私はね、「格差社会」の苦しみを乗り越える唯一の鍵はもうここにしかないと思っているんですよ。

 まあもちろんね、客観的な収入の……年収200万円だと確かに「生きられない」でしょう。お坊さんでもないかぎりはね。家族なんて持てないだろうし。そういうことはもちろん社会的にきちんとしなきゃいけないには決まっているんだけども。だからそれはそれとしてやんなきゃいけないよね。だけども、それとはまた別に、「常に比較する」という生き方そのもの……そこを観ないかぎり……。じゃあ我々――日本人すべての人――が月収が同じになったら「格差社会」が超えられるかというと、そんなことはないですよ。そんなことは実際的に無理だし。だから、我々のエゴというのは常に比較をするものなんだということを観ていけば……比較をすることによって常に苦しみを生み出しているということを観れば、色んなことが観えてくるはずですよね。

 それで――エゴのはたらきというのはだいたいみんな同じなんだけども――、エゴのはたらきのもう1つは、エゴというものは常に“separate”ね……「相手と離れていなきゃいけない」。〈私〉に対して〈相手〉、〈あいつ〉というね。だから常に“oppose”(反対する)、“resist”(抵抗する)、“exclude”(排除する)ことによって「なんとかして、このエゴのアイデンティティを守ろう」とする。そういうはたらきをしているんですよ。だから常に、エゴがエゴであるために相手とのぶつかり合いが必要なわけね。

 ここでエックハルト・トールさんがからかっているんだけども……皆は“peace”(平和、平安)と“joy”(喜び)と“love”(愛)が好きじゃないですか……好きなはずじゃないですか。「でも、本当に好きなんですか?」というとね、それは怪しいですよ。やっぱり、“peace”と“joy”と“love”の反対の、闘いと、憎しみと、苦しみと……のほうが好きなんじゃないのか? って[エックハルト・トールさんがからかっている]。やっぱり人類の歴史を見たら非常に疑問なんですよね。だって、本当に世界中の皆が“peace”と“joy”と“love”が好きだったらば、そもそも戦争なんか起こりようがないじゃないですか。
 まあもちろんね、[人によっては]「戦争というのは、色んな理由があってどうしても起こらざるを得なかった」ということも言うかもしれないけども、だけど本当に本当に皆が、世界中の誰もが“peace”と“joy”と“love”を本当に心から欲しいのだったら、戦争なんか起こりようがないんだけども、結局、戦争が止まったことがないのは、やっぱりどうもそうではない[=“peace”と“joy”と“love”が欲しいのではない]という[洞察]になる。
 それはなぜかといえば、やっぱり――これは非常に簡単な話で――人類は今までエゴとして生きてきたからなんですよ。人類がエゴとして生きているかぎり、エゴというのは、、もうはっきり言って、平和なんか好きじゃないんですよ。エゴは闘いが好きなんですよ。分かります? エゴというのは“love”なんか好きじゃないんですよ。やっぱり憎しみが好きなんですよ。
 私は今まで、慈悲の瞑想のときにいつも言ってきたけど、慈悲というのはエゴには無理なんですよ。慈悲とエゴというのは、まったく反対のものなんだから。それだからこそ、エゴを乗り越えるために慈悲の瞑想をするということがもちろん成り立つので、それが目的なんだけどね。
 慈悲を養っていく、あるいは本当の平和を求めていくのには、我々の身も蓋もないエゴの本質をまず観る必要があって……我々のエゴは、平和なんか好きじゃないというね。もう、はっきり言ってそうじゃないですか? 皆さん。自分のエゴを観れば、それが観えるはずですよ。そこを観ないかぎり、本当の平和運動なんか始まるはずがないんですよ。
 そういうものがエゴのはたらきとしてあって、さらにもう一つ。最後に、これはものすごくきついんだけども――まあ、今日はかなりきつい話をしてるんだけどもね――、エゴの好きなものは何かといったら、“guilt”(過去に対して悔やむこと)ですね。やったこと、あるいはできなかったことに対して悔やむことですね。それで、それがまたエゴを強化していってしまう。

 それで、エックハルト・トールさんは“Stillenss Speakes”でイエス様の言葉を引いているんですよ……“guilt”の問題に関してね。どう言っているかというと、“Forgive them for they know not what they do,”(彼らを許しなさい。なぜならば彼らは、自分が何をやっているのか分かっていないからだ)。これはまたきつい言葉ですけどね……。結局ね、我々が何かをやっていていも、本当は「私がやっている」んじゃなくて、もう何か「エゴとか色んなもの[がやっている]」。それはエックハルト・トールさんの言葉でいえば“unconscious”(無意識)……この“unconscious”というのは途轍もない深い意味でエックハルト・トールさんは使っているんですけどね。完全に目が覚めていても無意識な場合はあるわけだから。というか、普通はそうだよね。我々がエゴによって突き動かされて生きていたならば、全ての行動がそういうパターンになって、そうなったらば我々は、今は昼間で、完全に目覚めていて、寝てもいなくて、酒飲んでもいない。でも、自分が行動をしていても、それはすべて「自分がやっている」ことではなくて、突き動かされてやっていってしまっている。だから、そういうことによって何かお互いに殺し合いをしたとしてもね、――イエス様じゃないけども――それは「彼らが、自分のやっていることを本当には認識せずにやったこと」という話になってくるんですよ。

 今日は、かなりドキッとするような話をしましたけども。つまりこれはね、我々が今から克服していかなきゃいけないものの正体を見極めるためにやっているわけで……我々が何を克服しなきゃいけないかというと、それは我々のエゴなんだけども、そのエゴがどういうはたらきをするかをきちんと観なきゃいけなくて。
 [エゴのはたらきを]復習するとね……まず、「自分を犠牲者として見る」ことでしょう? それから、「不平不満を言う」、「過剰反応をする」ことでしょう? それから、「相手との闘い、諍い、摩擦を好む」ことでしょう? それから、(中略)常に「比較をする」。それから、エゴは常に「相手と自分とを分ける。分けることによって自分のアイデンティティを確保しようとする」。そしてもう一つは、[視線が]自分の過去に向かったときに、過去にやったこと、あるいはやれなかったことに対して“guilt”……「悔恨」とか「悔やみ」とか「罪の意識」とか、[思いの種類は]色んなのがあると思いますけども――それはキリスト教とそうでないのとでは微妙に違うかもしれないけども――、それが常に頭から離れないで、それを「自分だ」と見てしまう。そういう心のあり方ですよ。
 それがみんな、エゴのはたらきとしてあるわけね。だから、我々が今から乗り越えていかなきゃいけないエゴというものがそういうものであるならば……相手が分かったならば、どう乗り越えていくかが分かるわけです。要するに、相手の正体を観ることによって、それに対してどう手を打っていくべきかが分かるというのと同じで。

 それで、こんな話は身も蓋もないけども……まあ身も蓋もないんですよ。だからそこでね、もし我々が、いま学んだようなことを、今までと同じ地点に立ちながら何とかしようとしたら、グッチャグチャになるじゃないですか。もう、グッチャグチャになりますよ、これは。例えば“guilt”なんていったらね――これは西洋の特にキリスト教の文脈なら途轍もなく重い問題になっちゃうんだけども――、いま言ったようなことを、我々が今までとまったく同じスタンスで・まったく同じ場所で生きていながら克服しようとしたら、もう本当にグッチャグチャになってしまうんですよ。だから、エックハルト・トールさんみたいな人は決してそれを[安易に考えてはいない]。例えば、いきなり精神分析を始めちゃって、「なぜ自分はこんな罪の意識があるのか? それはいつから感じているか? 20年前のあのことをしたこと/しなかったことが未だに尾を曳いている」とか、そんなことを言い出したら、そういう分析とかはもう無限にできちゃうわけですよ。あるいは比較……常に相手と比較するということ。[比較をして]優越感を感じたり、劣等感を感じたり。それだったら、「収入が多い・少ないで優越感・劣等感を感じる」。「じゃあ、[全員の]収入を全部同じにすればいい」なんてね、そんなことももちろんできないわけだし。

 だから我々は、今まで生きてきた或る地点に立っているかぎりはもう、どうしようもないわけね。もう地獄じゃないですか、こんなことやっていたら……本当に。常に相手と比較して、そのために優越感を感じたり劣等感を感じたり。常に相手と“conflict”(ぶつかり合い)して、自分のやったことを後悔して(笑)、それで未来に何かを期待して……というね。そんな生き方、もう地獄以外のなにものでもないじゃないですか。

 それで、今日の法話の題を「最後の希望」というふうにしたんですけども、――これは今、皆が感じていることだと思うけども――やっぱり私らはどん詰まりに来ていると思うんですよ。サッカーのワールドカップだったらば、1次リーグというのは総当たりじゃないですか。だからまあ、勝たなきゃいけないんだけども1つぐらいゲームを落としてもまあ大丈夫なわけですよ。だけど、1次リーグが終わって決勝リーグに進んだらね、もう後は、勝ったら残れるし、負けたらさよならじゃないですか。私はもう、[現代人は]「1次リーグ」は終わって、「決勝リーグ」に入っちゃっている。それも、準々決勝とかそんなレベルじゃなくて、もうほぼ決勝になっている[と思う]。ある意味で、そのぐらいに追い込まれている。

(中略)

 そのぐらい、ある意味で我々は追い詰められている。だから、我々がもしエゴのままで生きていくとしたら、非常につらいことになっていく。それでこれはもちろん、つらいことになった社会的背景とかは当然あるし、社会を変えなきゃいけないのはそのとおりでしょう。だけども私は、もっと広い意味で、我々がもうエゴとしては生きていけないところまで追い詰められているんじゃないか[と思っている]。それを、若い人がいちばん――残酷なぐらいに――感じているじゃないかと思っているんですよ。

 だから、もう無理ですよ……こういう生き方をすること自体が。エゴとして生きていくかぎりは、常に相手と比較しなきゃいけない……地獄じゃないですか、そんなこと。相手と常に“conflict”しなきゃいけない……それも地獄じゃないですか。だから、我々は今までの生き方だったら、どこをどう考えたって地獄で。「今の社会は若者にとって地獄か」なんて、テレビ番組の題でしたけども、地獄だと私は思っているんですよ。それは若い人だけじゃなくて、すべての人にとって。それは、「社会がどうの」というのもそうなんだけど、それ以前に、やっぱり我々がエゴとして生きていくことの限界に、もうほぼ近づいている。

 だから、ここでやらなきゃいけないことはね……今までの生き方の本質を観たらば、どこをどう考えたってそれは地獄にならざるを得なくて、それを乗り越えていくために、まったく新しい生き方[が必要だと分かる]。まったく新しい生き方というのは、まったく新しいアイデンティティの問題なんですよ……はっきり言うとね。だから、まったく新しいアイデンティティを観るために……やっとそこで「自分探し」と繋がるんだけども。なぜ「自分探し」がみんな失敗してきたかというと、そこいらへんが非常にあいまいだったから。

 だから、仏教というのも、はっきり言って「究極の自分探し」だから……本来はね。だから、「究極の自分探し」の答えを下さる人はお釈迦様しかいないと思っているんですけど私は。だから、もう他へ行かないでお釈迦様に素直に「本当の自分とは何ですか?」って訊けばいいんだし、そしたらお釈迦様は「本当の自分」を教えてくれるし。その「本当の自分」を見つけるためにやらなきゃいけないことはまあ、まず「息を吸って、息を吸っていること気がついている。息を吐いて、息を吐いていることに気がついている」という、まあいつもどおりのことですけどね。いつもどおりのことなんだけども、そこにはそのぐらい深い意味があって、それは単に、こんな一法庵みたいな小さなところでアナパナ瞑想をやるなんていうレベルの話じゃなくて、やっぱりもう今、現代の日本をはじめとする地球上のありとあらゆる場所で完全に行き詰まり状態になっていて、だからこそ、それを乗り越えていくための、まったく新しいアイデンティティが必要で、まったく新しいアイデンティティとして生きていくこと……それが最後の希望だと私は思っています。

 だから、このポッドキャストを聴いている人で「自分探し」をしている人は、ぜひお釈迦様に訊いてください。それで、「本当の自分」に会いたかったら、まず自分のエゴの正体を知ったうえで、「息を吸っていることに気がつく。吐いていることに気がつく」という、その瞑想から始めてください。そしたらば、皆さんの「自分探し」は、ついに終わります。そして、そこに本当の希望がありますから。だから、そうなったら「死ねないから、ただ生きているだけ」ということはないですよ。そんなことはあり得ないです。そんな、相手を巻き込んで自殺することもないんだし。だから、もし「死ねないから生きているだけ」って思っている人は、ぜひお釈迦様に訊いてください。そしたらば、そんなみじめな人生を生きる必要なんかまったく無いですからね。本当に無いんですよ、そんなみじめな人生を生きる必要は。

(中略)

 そんなみじめな人生を生きる必要は全然無いですし、まったく新しい世界がそこでひらかれますからね。そうして下さい。

(終わり)